この世がクソかクソでないかなんて議論なんかせずともそんなもの決着なんて既についている。
その証明として、安楽死施設がこの世界にできていないからだ。
勿論スイスやある一部の国では安楽死施設という制度を導入しているが、ここも安楽死するためには厳しい審査が必要らしい。
安楽死するまでには相当の手続きや審査を潜り抜けないといけないので、言ってみれば気軽に安楽死できない時点でほぼ安楽死施設としての機能を果たせていないというわけだ。(重度の病気や高齢者の介護度が高い方しか受けれないらしい
そもそも論だけど、なぜ安楽死施設ができないのか?
この世が素晴らしく生きるだけの価値、意味が十分に備わっているのであれば安楽死施設などができたとしてもこの世がそれほど素晴らしいものであろうなら誰も利用しないはずだ。
安楽死施設なんか作ったところで問題にはならないはずなのだ。
問題にならないのであれば、安楽死施設は作るべきだ。
むしろ、この世の素晴らしさとやらを正当化したいのであれば、安楽死施設は作るべきだろう。
「いつでも死ねる世界を作ってあげたけど、死ぬ選択肢を選ばないって所を見ると、この世はそれほど素晴らしいというわけだな」と世界の肯定論者は高らかに生きる意味を正当化できるのにね。
でも、いつになっても一向に安楽死ができるような気配はない。
国会でも議論にすらなっていない。
もうすでに答えはわかっている。
うすうすみんな感じているんだ。
安楽死なんか作ったら大量の安楽死利用者が出現して国家の運営が持たなくなると・・
安楽死志願者が続出してこれは大変な状態になりかねん!
というような心の声が聞こえる・・
本当にこの世に産まれてきて幸せだ。長生きしたい。もう一度産まれたいなどとポジティブと言われる気持ちな人だけであふれかえっているのなら安楽死施設などできた所で誰も利用しないわけだ。
でも実際の所、安楽死施設が出来ない所を見ると、この世の肯定論者も本心では生きるのが辛いと感じ、安楽死施設などができれば真っ先に飛びつく人が大多数であろうと思っているに違いない。
だから安楽死施設が出来ないのだ。
答えは至ってシンプル。
本当は、誰もがこの世の無理性、限界性を理解している。この世はクソって誰もがうすうす気づいている。
しかし、先祖が長々と続けてきた文明や命のリレーとやらを無理くり意味付けをし続け繁殖繁殖繁殖という意味のない行為にせっせと汗を流す。
大多数の幸福のためには少数の犠牲を厭わないと。少しくらい不幸な者が出ても仕方ないと。誰もが口にはしないけど心では必ず思っている。
苦しんでいる人、不幸な人は視界に入れなければいい。
僕たちは幸せな人たちとだけ関わり合って、幸せで優越感にだけ浸れればいい。
この世界の肯定論者の薄汚い心の声が聞こえる。
もうすでにこの世がクソかクソでないかなんて答えは議論する意味もない。
反論したければしたらいい。
この世界がクソでないならそれを証明してみせてくれ。
この世界がクソでないなら胸をはって安楽死施設の1つや2つ作れるだろうから。
みんなこの世界を必死に美化しようとしてるけど、実はかっこつけて無理に美化してるだけで本心ではこの世がクソって本当はわかってる。
分かってるのに美化という嘘をつく。
薄汚い心で綺麗な言葉を吐く。
美化している自分に酔う。
綺麗な言葉を吐く自分に酔う。
誰も救わない綺麗な言葉。
キモイね。
この世界が美しいというのなら安楽死の1つや2つ作ってみろ偽善者。
バイバイ。