こんにちは。きつねこです。
このブログでは反出生主義を取り扱い過ぎて飽きている方も多いかもしれませんがご了承ください。
生きるのが苦しくなると、つい反出生主義について考えてしまうのです。
今回のテーマは
「産まれてきた子供が幸せになれる可能性もあるから子供を産む」
という理由で子供を産む行為を論破、というか僕なりの考えを言いたいと思います。
まず、幸せという曖昧な感情について深く考えてみよう。
まずさ。多くの方は幸せについて深く考えた経験があるか分からないけど、僕はこう思うんだ。
幸せってのは必ず不幸とセットで考えるべきですよ
って話。
「は?」っていう声が10人中9人の人から聞こえそうなので説明していくよ。
まずさ。
俺はさ。幸せの裏には必ず不幸があると思ってて。
だってさ。
幸せの形を例えると
「世間の年収の平均以上あるから幸せ」⇔「世間の年収の平均、あるいは以下しかないから不幸」
「好きな人と結婚できたから幸せ」⇔「好きじゃない人と結婚してしまったから不幸」
「学歴が平均以上あるから幸せ」⇔「学歴が平均以下だから不幸」
ってな感じで、まぁ例えが下手な所もありますが、要は、幸せだけが存在する状態は
おかしいんだよね。そもそも。
まず、俺はそもそも、幸せを感じれるっていう人間独特のセンサーがもうすでに終わってると思うんだよ。
幸せなんか感じちゃいけないと思うんだよ。
幸せを感じた時点で不幸がこの世にありますよ。って認めてるわけだから。
俺はさ。赤ちゃんとか幼稚園児って最強だと思っていて。
理由は、簡単で幸せも不幸も感じないから。
幼稚園児の時「生きてて幸せだな~」って思った経験ある?
普通ないよね。
要は、幼稚園児たちってこの世の不幸を理解してないし、経験もまだしてない(もしくは経験しても感知できるような脳内のセンサーが発達していない)不幸も感じないけど幸せも感じないっていう至って単純な思考なんだよね。
だから、俺は「産まれてきて幸せ」って言ってる人はしっかり不幸を経験してる人だってわかってるし、そもそも幸せだけを抽出して幸せだけ味わおうってのがまず不可能なんだよ。
俺は、幸せな状態って【幸せも不幸もそもそも何も感じない】っていう状態が一番幸せだと思ってる。
まとめ
ごめん。上手くまとめれてないし、
脳内の思考の言語化も下手過ぎて申し訳ない。
でも、簡単に言うとすれば、俺はそもそも人間の幸不幸を感じ取れる脳みそのセンサーが発達しているから終わっていると言いたいんだ。
はっきり言って幸せなんて不幸との比較だ。
不幸があるから幸せが際立つのだ。
要は不幸というスパイスが幸せを引き立たせる。
幸せだけが存在するのであれば、その幸せは幸せと人は感じなくなるであろう。
だから、出生主義の「幸せになるかもしれないから産む」というのは大きな間違いであるとわかるだろう。
むしろ、幸せなんて感じるからいけないのだ。
幸せが不幸を発生させ、不幸が幸せを発生させる。
幸せだけっていう都合の良い人生は不可能だ。
ここからどうやっても逃れられないのが人生。
じゃあそもそも幸せも不幸も感じない産まれないって状態は最高の幸せじゃないのか?
っていう考え方が反出生主義なんだ。
幸せも不幸も感じない状態が、最高の幸せである。
何も感じない状態。
至高だと思う。
出生は産まれてくる子供に確実に不幸な目に会わせるという点で許される行為なのだろうか?