78歳のおばあちゃんが危篤状態だ。
6年前に網膜色素変性症と言う治りにくい目の病気にかかってしまい、それからというもの生きる気力を失ってしまった感じだ。
というのも、視力が著しく落ち、日々の料理や買い物、洗濯、散歩などをするのが困難になってしまったからだ。
趣味の料理、テレビ、散歩、新聞、など目を使わないと楽しめないものはできなくなってしまった。
それからは、何も一人ではできないので、ほとんどコタツで寝たまま。
そんな脳みそを使わない生活を2年ほどしていたら認知症にもかかってしまった。
祖母の認知症は日を追うごとにひどくなっていった。
ただでさえ、目の視力が0.1というほぼ見えないほどに悪化した上に認知症の悪化となれば普通の生活もままならない。
最初は目が見えないだけだったので、外に行くときも手を繋いであげれば散歩や買い物はいけるし、テレビも少しは楽しめていた様子だった。
それが、認知症を発症してからは、体が思うように動かなくなり、最終的には歩行さえ困難な状態になっていった。
それからは、散歩も行くのが難しく、家で寝た切り。
家で寝た切りの生活をしているから余計認知症がひどくなる。
祖母はそんな生活を2年ほど続けたが、頻繁に「早く死にたい。」と言っていた。
「おばあちゃん。何かしたい?どこか行きたい所ある?食べたいものある?」
と聞いても
「死にたい。殺してくれ・・」
とだけ一言返ってくる時もあった。
どのように返せばいいか分からないし、とてもやりきれない悲しい気持ちになった。
この世のどうしようもなさに絶望した。
日々日々衰えていく祖母。
最近はまともに会話すらできない状況で、ご飯も一人でできない。誰かが口に運んであげないといけないのだ。
最終的には、ディサービスに通ってはいたんだけど、流石にディサービスでも見切れないという状況になってから、老人ホームに預けるという形になった。
老人ホームに入っても、ただ寝てるだけ。意思の疎通はできない。
ただ、命を無意味に伸ばしているという表現が正しいだろう。
ただ、寝てるだけなのだから、こういう言葉はきついかもしれないが、死人と変わらない。
しかし、介護士いわく、こういう寝た切りの患者は人から見れば気の毒だが、寝てる本人はそれほど苦痛に感じていないらしい。ほとんど意識がないらしいからだ。
父親はおばあちゃんの様子に「可哀そうだ。」「長生きしてほしい」という感想を持っているが、僕はそう思わない。
むしろ、早く死なせて楽にさせてあげたいとさえ思う。
祖母も認知症の頃「死にたい。殺してくれ」と頻繁に言っていた。
その願いがやっとかなうのだ。
祖母の気持ちは聞けないが、おそらく祖母は喜んで死ぬのではないのかと僕は想像する。
今、祖母は危篤状態だ。
家族で祖母の延命治療をするか議論を交わした。
父親は長生きしてほしいのかもしれないが、僕は早く楽にさせてあげた方が良いと思っている。
なぜなら、
「死」は素晴らしいからだ。
この世のありとあらゆる悩みを超越し克服させてくれる「死」というのもは偉大で抗うもののできないほどの大きな力だ。
最終的に、人間のすがる最高の願いと言うのは「死」しかない。
「死」というものは恐ろしい反面、絶望を治すこの上ない処方箋だろう。
「死」というものは残酷で悲しいものではない。世間の認識は間違っている。
むしろ、「死」と言うものは希望だ。最後の希望なのだ。
逆にこの地獄のような世界で死ぬことができない方が絶望だろう。
この世を覆いつくす絶望に唯一抗うことができる行為こそ「死」なのである。
「死」を悲観的に捉えてはいけない。
むしろ「死」ほど素晴らしいものはない。
「死」こそこの世で至高なのだ・・